小澤弘昌の私設民俗資料館



泉郷と八幡神社





元旦祭
概要
 清水町八幡にある八幡神社は明治8(1875)年以降、駿東郡清水町・長泉町の郷社であった。現在でも毎年9月14、15日に行われるこの神社の祭典には、清水町・長泉町の町長をはじめ、各区の区長達が参列している。郷社となる以前は八幡と泉郷六ヶ村が氏子であった。
 近世以降、八幡と泉郷六ヶ村を含む地域が泉郷と呼ばれていた16世紀中期は、この地域に「地域的一揆体制」を形成した土豪たちは生活基盤(丸池用水、小浜用水、柿田川の川岸)を確保する一方で、新たに、その村落社会内部における紐帯を強めるための精神的な支柱を必要としていた。その精神的な支柱という意味での氏神となったのが、八幡神社であったということである。
八幡神社の沿革
 明治12(1879)年の「郷社八幡神社明細帳」(以下、明細帳)によると、八幡神社は治承4(1180)年に造営された。天正19(1591)年に箱根新道(旧東海道)が開設されると、それまで西向きだったものが現在のように南向きとなった。その前年には豊臣秀吉と徳川家康が小田原征伐の帰路に立ち寄り参拝している。
 「明細帳」によると氏子地域は八幡村・堂庭村・湯川村・的場村・戸田村・畑中村・久米田村。氏子件数は147戸。
 祭神は誉田別命(応神天皇)。末社は以下の11社(祭神)。@桃澤社(建御名方神)、A山神社(大山祇神)、B熊野社(事解之男神、伊邪那岐神、速玉之男神)、C神明社(伊勢大神)、D水神社(美都波之売神)、E廣瀬社(天御柱国御柱神、和加宇賀之売神)、F高良社(竹内宿祢)、G水若社(宇治皇子)、H姫若社(宇礼姫)、I若宮八幡宮(大鷦鷯尊)、J白幡社(源頼朝公)。(詳しくは八幡神社由緒まで)
岩崎氏以前の神職

頼朝と義経の対面石

八幡神社の旧参道(足柄道古道に面した部分)
 近世以降、八幡神社の神職を世襲したのは八幡の岩崎氏(内八幡)であった。それ以前(文明3(1471)年以降)は今川氏の家臣であった由比氏が神主であった(中野圀雄「対面石と八幡神社」)。また文明3(1471)年の今川義忠から由比光英に与えられた「知行宛行状」から、由比氏が八幡の八幡神社の神職を務めることとなった他に八幡原(八幡神社と岩崎屋敷跡を中心とした小字、西原・内屋敷・前原・東原の一帯)関の管理権と通行料の徴収権を与えられていたことがわかる。加えて八幡神社の神主の屋敷は柿田にあり(天文22(1553)年の「今川義元の朱印状」)、由比氏の知行地も柿田にあった(永禄512(1567)年の「今川氏真判物」)。また柿田には同時期、戸倉城主笠原政堯の屋敷跡といわれる海戸屋敷があった。この海戸屋敷の位置は狩野川の川岸に近く、狩野川の水運を利用するのに適した立地である。狩野川の水運は池亨氏や上野尚美氏が明らかにされている通り、この当時もかなり盛んに用いられている。当然、泉郷もその経済圏の中にあったと考えられることから八幡神社の神主であり、泉郷の領主の1人でもあった由比氏の屋敷も柿田にあったととしても不思議はないであろう。
「新しい型の神職」のもとでの祭祀へ 中世から近世にかけての氏神を中心とする祭祀団の成立について萩原龍夫氏は「近世祭祀団成立序説」という論文の中で

大名の権力が高まりつつある時期は、一方では村落の自主も進み、村の鎮守社が村人によって確保される時期、
すなわちあたらしい氏神と「氏子」の時代であったわけである。
と述べられている。泉郷の場合、その成立後、その社会自身の結合の精神的な紐帯(氏神)とされたのが荘園制の頃から、この地域にあった八幡神社であったということなのである。『駿河記』にも
  堂庭・湯川・的場・久米田・八幡等惣領守
と記されており、八幡神社がこれらのムラムラの「惣領守」と認識されていることがわかるのである。
 同じ時期、西日本などの郷村社会においては、その指導者である名主・土豪たちが宮座のもとで毎年交替で祭祀を行なうようになっていた。そういった郷村祭祀の発達につれて、宮座の下で神社の祭祀を担当する専業の神職も出てくるようになった。その専業の神職となった人々が新たな教義としたのが、一五世紀以降発達してきた吉田神道であった。吉田神道は郷村社会との結びつきを強くする一方で、後北条氏をはじめとする多くの戦国大名からも支持を得ていた。これらのことの積み重なりが結果的に、全国の神社祭祀の祭祀団を宮座制から氏子制へと再編させたのである。
 ただ、泉郷の場合、村落自治が始まるのが16世紀後半と西日本の同じような地域と比べて遅いことから、萩原氏の言う「古い型の神職」から「新しい型の神職」への変化が宮座やそれに相当する段階を経ずに行われたと考えられる。泉郷においては柿田の岩崎氏が吉田家とも関係のあったことから「専門の神職」=「新しい型の神職」であったことがわかる。つまり岩崎氏は由比氏の元で神職を務めていたのが土豪化し八幡神社の専業の神職であるとともに泉郷を中心とする「地域的一揆体制」の成員にもなったということなのである。
近世八幡村の成立

神社の経済基盤の確立 泉郷は天正10(1582)年、甲州征伐の際の織田信長の裁定により後北条氏の支配を離れ徳川氏の支配を受けることとなった。この時、天正7(1579)年に三枚橋城に対する防御拠点として築かれた泉頭城は廃城となった。その翌年の天正11(1583)年、沼津(三枚橋)城主松平(松井)康次は、神領寄進という形で八幡神社の所領30貫を新たに保証している。ちなみに、この30貫を石高に直すと、天正11(1583)年は銭一貫文で米二石である。つまり、この年に保証された神領30貫を米に換算すると、60石の収入が保証されたということである。。これを米の収穫高への税額である貫高から、収穫高そのものを表した石高に直してみると、年貢率が四公六民の場合、150石となる。これは近世に入ってからの八幡村の収穫高154石にほぼ一致する。八幡村は江戸幕府の成立後は旗本久世氏の知行地であった。旗本知行地は幕府の直轄領である。幕府の直轄領の年貢率の平均は四〇パーセント(四公六民)である。加えて、八幡には、この地区が元々幡神社の神領であったという伝承(八幡は内氏子と言われる)があり、「八幡神社文書」の中に、八幡(郷)に関する文書があった。永禄11(1568)年に出された北条家禁制と天正17(1589)年に出された徳川家七箇条定書である。これらの文書の内容は、それぞれ村落の代表である土豪たちに出される内容であり、宛先もそれぞれ、「八幡郷」「清水村八幡」となっている。ここから近世以前の八幡郷(村)そのものが、この神社の経済的基盤である神領であったと言えるのである。
 さらに慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後の慶長7(1602)年、徳川氏から、この神社に神領20石が新たに寄進された。先述した通り、この時期まで、八幡神社の神領は30貫(約150石)である。本来ならば、この神領寄進以降は、合計で170石になるはずであるが、この時期以降、この神社の神領と確認されるのは、この時寄進された20石(後、39石)のみとなり、その他の154石は旗本の久世三四郎領となっている。この時に近世の八幡村が成立したのである。
神職と村役人の分離 それを示すのが、岩崎氏(内八幡)の分家で、近世において八幡村の名主等の村役人を世襲した家に伝わる「岩崎氏系譜」である。この系譜には、

口碑に依れば司官内八幡岩崎氏より竹原村高橋幸助方に聟となり後事情の為めに実家に復帰し家督を継ぎ、兄の子成長するに及び自ら一家を興す之れ我が岩崎家なり
とある。この分家の初代については、この系譜によると「俗名を岩崎豊後重考と称し延宝五年二月一三日に没す」とある。この豊後重考という名は内八幡(岩崎本家)に伝わる「岩嵜氏祖代々霊簿」によると、内八幡岩崎氏の四代目、二九代目の八幡神社神主となっている。加えて、この「岩嵜氏祖代々霊簿」と「岩崎氏系譜」の豊後重考の妻の戒名はともに禅林要参大姉となっている。
 これらのことから、内八幡の四代目と、この家の初代は同一人物であることが確認できる。つまり、分家の初代重考は内八幡の二代目長十良重正の子で三代刑部元重の弟である。重考は兄元重の死後、元重の子である兵部元考が成人するまで八幡神社の神職を務めたということである。さらに重考は元考に神主職を譲ってから、その没する延宝五(一六七七)年以前に内八幡から分家したということである。その後、名主・組頭として八幡村の村落自治の中心となり、元考の子孫はその後、八幡神社の神職を世襲していくことになるのである。
八幡神社と東海道


戦勝祈願(昭和14年)小澤弘昌所蔵

新嘗祭
 八幡神社は郷社となる以前から、八幡と泉郷六ヶ村以外の地域の人々からの信仰を集めていた。たとえば安政7(1860)年の「祭礼諸用覚帳」には獅子浜村、大諏訪村、小諏訪村などの浜方網元や沼津宿本陣などの有力者も供え物を奉納していることがわかる。
 また『清水町史 資料編W(近世)』には「八幡宮諸大名初尾帳」などから諸大名や旅行者が旅人が東海道を通行する際に通行の安全をこの神社で祈願したことが明らかにされている。特に沼津市の日枝神社とともに大阪城代・京都所司代の交替の際に、ここで道中祈願のためのお祓いが行われることが慣例となっていたという。さらに『清水町史 資料編W(近世)』には

東海道通行に八幡神社は大きな役割を果たしていた。箱根越えをした道中安全祈願は三嶋大社で行う方が良いと考えられるが、三嶋大社は武運長久を祈る神社であったので、役割分担ができていたのだろう。
と書かれている。続けて、この神社の地理的位置について同書は

清水町域は沼津宿と三島宿の間にあり、朝鮮人使節の通行では通詞が宿泊するなど、間(あい)の宿の役割も果たしていたものと思われ、八幡神社がその核となっていたと考えられる
と書かれている。
 このように、この神社は泉郷六ヶ村と八幡以外にも近世以降、箱根越えをする旅人からも信仰を受けていたことがわかるのである。
八幡神社の例大祭

神社参進(1988年)小澤弘昌所蔵

 八幡神社の例大祭は毎年9月14、15日に行う。10月14、15日に行われたことがあった。かつては八幡神社の氏子地域である清水町・長泉町から選出される責任役員(清水村・長泉村2名づつ、村長経験者、かつては八幡からは選出されなかった)と区長を中心とする区の役員のもと、青年団により祭典が運営されていた。祭典では主に映画、演芸などを行った。祭典費は青年団が集めてきたが、沼津・三島まで行った。1950年代の青年団解散後は区内の各組を大体、かつてのムラ組ごとにまとめ、毎年交代で当番町として祭典の運営を行っている。現代は7組に分かれており、7年に1度回ってくる。
 戦前の八幡神社の例大祭は「三島大社に次ぐ規模」といわれたほど盛大なものであった。近郷の子供たちは親から小遣いがもらえ、大人は出かけるとただで酒を飲ませてもらえた。
  現在は14日に子供御輿が行われ、夜は子供シャギリ、演芸などが行われる。15日には区長と祭典委員長が神主を先導する神社参進の後、山車の引き回しが行われ、子供相撲が行われる。かつては大人相撲が行われており、北は御殿場、南は静浦からも参加者が集まった。
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