小澤弘昌の私設民俗資料館![]() |
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泉郷と八幡神社 |
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明治12(1879)年の「郷社八幡神社明細帳」(以下、明細帳)によると、八幡神社は治承4(1180)年に造営された。天正19(1591)年に箱根新道(旧東海道)が開設されると、それまで西向きだったものが現在のように南向きとなった。その前年には豊臣秀吉と徳川家康が小田原征伐の帰路に立ち寄り参拝している。 「明細帳」によると氏子地域は八幡村・堂庭村・湯川村・的場村・戸田村・畑中村・久米田村。氏子件数は147戸。 祭神は誉田別命(応神天皇)。末社は以下の11社(祭神)。@桃澤社(建御名方神)、A山神社(大山祇神)、B熊野社(事解之男神、伊邪那岐神、速玉之男神)、C神明社(伊勢大神)、D水神社(美都波之売神)、E廣瀬社(天御柱国御柱神、和加宇賀之売神)、F高良社(竹内宿祢)、G水若社(宇治皇子)、H姫若社(宇礼姫)、I若宮八幡宮(大鷦鷯尊)、J白幡社(源頼朝公)。(詳しくは八幡神社由緒まで) |
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岩崎氏以前の神職
「新しい型の神職」のもとでの祭祀へ 中世から近世にかけての氏神を中心とする祭祀団の成立について萩原龍夫氏は「近世祭祀団成立序説」という論文の中で
堂庭・湯川・的場・久米田・八幡等惣領守 と記されており、八幡神社がこれらのムラムラの「惣領守」と認識されていることがわかるのである。 同じ時期、西日本などの郷村社会においては、その指導者である名主・土豪たちが宮座のもとで毎年交替で祭祀を行なうようになっていた。そういった郷村祭祀の発達につれて、宮座の下で神社の祭祀を担当する専業の神職も出てくるようになった。その専業の神職となった人々が新たな教義としたのが、一五世紀以降発達してきた吉田神道であった。吉田神道は郷村社会との結びつきを強くする一方で、後北条氏をはじめとする多くの戦国大名からも支持を得ていた。これらのことの積み重なりが結果的に、全国の神社祭祀の祭祀団を宮座制から氏子制へと再編させたのである。 ただ、泉郷の場合、村落自治が始まるのが16世紀後半と西日本の同じような地域と比べて遅いことから、萩原氏の言う「古い型の神職」から「新しい型の神職」への変化が宮座やそれに相当する段階を経ずに行われたと考えられる。泉郷においては柿田の岩崎氏が吉田家とも関係のあったことから「専門の神職」=「新しい型の神職」であったことがわかる。つまり岩崎氏は由比氏の元で神職を務めていたのが土豪化し八幡神社の専業の神職であるとともに泉郷を中心とする「地域的一揆体制」の成員にもなったということなのである。 |
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近世八幡村の成立 神社の経済基盤の確立 泉郷は天正10(1582)年、甲州征伐の際の織田信長の裁定により後北条氏の支配を離れ徳川氏の支配を受けることとなった。この時、天正7(1579)年に三枚橋城に対する防御拠点として築かれた泉頭城は廃城となった。その翌年の天正11(1583)年、沼津(三枚橋)城主松平(松井)康次は、神領寄進という形で八幡神社の所領30貫を新たに保証している。ちなみに、この30貫を石高に直すと、天正11(1583)年は銭一貫文で米二石である。つまり、この年に保証された神領30貫を米に換算すると、60石の収入が保証されたということである。。これを米の収穫高への税額である貫高から、収穫高そのものを表した石高に直してみると、年貢率が四公六民の場合、150石となる。これは近世に入ってからの八幡村の収穫高154石にほぼ一致する。八幡村は江戸幕府の成立後は旗本久世氏の知行地であった。旗本知行地は幕府の直轄領である。幕府の直轄領の年貢率の平均は四〇パーセント(四公六民)である。加えて、八幡には、この地区が元々幡神社の神領であったという伝承(八幡は内氏子と言われる)があり、「八幡神社文書」の中に、八幡(郷)に関する文書があった。永禄11(1568)年に出された北条家禁制と天正17(1589)年に出された徳川家七箇条定書である。これらの文書の内容は、それぞれ村落の代表である土豪たちに出される内容であり、宛先もそれぞれ、「八幡郷」「清水村八幡」となっている。ここから近世以前の八幡郷(村)そのものが、この神社の経済的基盤である神領であったと言えるのである。 さらに慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後の慶長7(1602)年、徳川氏から、この神社に神領20石が新たに寄進された。先述した通り、この時期まで、八幡神社の神領は30貫(約150石)である。本来ならば、この神領寄進以降は、合計で170石になるはずであるが、この時期以降、この神社の神領と確認されるのは、この時寄進された20石(後、39石)のみとなり、その他の154石は旗本の久世三四郎領となっている。この時に近世の八幡村が成立したのである。 神職と村役人の分離 それを示すのが、岩崎氏(内八幡)の分家で、近世において八幡村の名主等の村役人を世襲した家に伝わる「岩崎氏系譜」である。この系譜には、
これらのことから、内八幡の四代目と、この家の初代は同一人物であることが確認できる。つまり、分家の初代重考は内八幡の二代目長十良重正の子で三代刑部元重の弟である。重考は兄元重の死後、元重の子である兵部元考が成人するまで八幡神社の神職を務めたということである。さらに重考は元考に神主職を譲ってから、その没する延宝五(一六七七)年以前に内八幡から分家したということである。その後、名主・組頭として八幡村の村落自治の中心となり、元考の子孫はその後、八幡神社の神職を世襲していくことになるのである。 |
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八幡神社と東海道
また『清水町史 資料編W(近世)』には「八幡宮諸大名初尾帳」などから諸大名や旅行者が旅人が東海道を通行する際に通行の安全をこの神社で祈願したことが明らかにされている。特に沼津市の日枝神社とともに大阪城代・京都所司代の交替の際に、ここで道中祈願のためのお祓いが行われることが慣例となっていたという。さらに『清水町史 資料編W(近世)』には
このように、この神社は泉郷六ヶ村と八幡以外にも近世以降、箱根越えをする旅人からも信仰を受けていたことがわかるのである。 |
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八幡神社の例大祭
戦前の八幡神社の例大祭は「三島大社に次ぐ規模」といわれたほど盛大なものであった。近郷の子供たちは親から小遣いがもらえ、大人は出かけるとただで酒を飲ませてもらえた。 現在は14日に子供御輿が行われ、夜は子供シャギリ、演芸などが行われる。15日には区長と祭典委員長が神主を先導する神社参進の後、山車の引き回しが行われ、子供相撲が行われる。かつては大人相撲が行われており、北は御殿場、南は静浦からも参加者が集まった。 |
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