小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)

清水町に誇りを持とう



 このかつて、泉郷・伏見郷・徳倉郷と呼ばれた地域(清水町)は平地で、一見してこれといった特徴がないことが特徴である。その一面生のみを見て、このまちは「特徴がない」とか「特産品」がないとか「誇れるモノがない」とか嘆く人が多い。あっても「柿田川しかない」という人が多い。本当にそうだろうか。
 私は、そうは思わない。私の母方の先祖を含め、この地域の人々は、16世紀前半のいわゆる戦国時代、条里制の時代以来の灌漑設備である丸池(古池)と千貫樋の崩壊後、水不足に悩ませれたこの地域の人々は、団結し穀倉地帯として発展させることに奮闘してきたからである。
 具体的に言うならば今川氏・後北条氏・武田氏などの戦国大名と時に戦い、時に結ぶことで灌漑設備の復興に努めたほか、年貢の地下請を実現し、財源の移譲を成功させたのである。なぜなら、かつて(特に江戸時代)は米がもっとも価値があったからである。結果、清水町内には水田が増え、伊豆国全体で米の収穫量が5万石の時期に、わずか8平方キロしかない土地で、その10分の1にあたる5千石の収穫量を得るに至ったのである。そして、米を原料とする糀も18世紀から新宿で製造されるようになったのである。これがまた旧東海道を中心として外部との文化的交流も進ませることになったのである。
 かつて、この地域の人々は目の前の危機を乗り切るために領域を乗り越えて連合したが、その基本はあくまで人である。そのことを理解せず、単なる空間を区切る領域でしかない市町村エリアを大事にする人が現在、如何に多いことか。
 現在は水の危機はないが、我々30代以下の世代が生活しにくい世の中になってきている。もちろん贅沢をせず、身の丈にあった生活をすることで、生活を楽にするという方法もあるが、それ以前に少子高齢化という問題がある。これを何とか解決し、日本全体のパワーを甦らせるために生活空間の見直しを図り(具体的には中核市・政令都市の実現)、子育てや老人の介護をしやすい環境とそれも含めた経済環境・生活環境や制度を整える段階に来ているのではないか。
 そこで、私も自分のホームページをリニューアルし、日本全国に自慢できる戦国時代の泉郷の人々のダイナミックな行動力と、その伝統を受け継ぐ清水町の灌漑用水の協同慣行を中心とする民俗・文化の素晴らしさを、強く訴えていくことにしたのである。

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