小澤弘昌の私設民俗資料館 (静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史) |
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![]() ホームページ開設の目的 |
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私は大学時代、民俗学を専攻しましたが、その頃から村と村との関係や村の生活について興味を持っていました。そこで卒業論文を書くにあたりテーマとして地元清水町の灌漑用水の協同慣行を選びました。現在の清水町は町域の中央を流れる柿田川(泉川)に代表されるように水に恵まれた町という印象が強いでしょうが、かつては三島市との境にある千貫樋と玉川にある丸池(新池)に代表されるように、毎年、田植えの時期になると灌漑用水の不足した地域でした。それ故に町内には丸池用水、小浜用水を始め、多くの灌漑用水がありました。卒論を書くにあたっては較的調べやすかった丸池用水と小浜用水について調査しましたが、その際、慶長年間の東海道開設後、街道筋に集落を形成した小浜用水掛かりの地域よりも,それ以前からの泉郷の伝統的生活文化を引き継ぐ丸池用水掛かりの地域=泉郷六ヶ村(堂庭ほか六大字)に史料も話者も豊富に存在することがわかりました。そこで卒業後、丸池用水の協同慣行に焦点をしぼり、当時の古泉榮一理事長をはじめとする丸池かんがい用水土地改良区の方々の協力を受けながら、調査をして参りました。その調査結果を4年ほど前に「ムラ連合と灌漑施設」としてまとめ、京都民俗学談話会の会報である『京都民俗』に投稿しましたところ幸いにも掲載していただくことができました(『京都民俗 第15号』に掲載)。また、灌漑用水の協同慣行を調べると同時に、泉郷の人々と八幡区の八幡神社との関係についても調べてきました。それをまとめた「ムラ連合と八幡信仰」を『地方史静岡』に投稿しました(『地方史静岡 第28号』に掲載)。これらをもとに、昨年、CD−ROM『丸池用水の協同慣行』を作成し、関係各位に配布しました。 | ||
先の2つの論文とCD−ROMをご覧になっていただければわかりますが、私は当初、中世以来の丸池用水、小浜用水を中心とする人々の結びつきについては、灌漑用水を中心とするムラ連合であると考えていました。しかし、最近の清水町史、沼津市史を中心とする研究の成果に、これまで調べてきたことを重ね合わせるうちに考えが変わってきました。これは、復刻された喜多村俊夫氏の『日本灌漑水利史の史的研究 総論編』を読んだことから決定的なものとなりました。 つまり、現在の清水町域における人々の結びつきの起源については、かつて小和田哲男氏が提示されたように「泉郷を中心とする土豪たちの地域的一揆体制」であったと考えています。それは泉郷六ヶ村の各村名が近世の検地以後に登場するものであること、からも明らかです。つまり現在まで堂庭ほか六大字という大字同士の結びつきは元々一つの村だったものが近世に入ってからの検地により、堂庭をはじめとするいくつかの村(いわゆる藩制村)に分けられたと考えられるからです。ですから、泉郷六ヶ村は井郷(井組)ということはできますが、生活基盤を中心にいくつかのムラが連合したというムラ連合という言葉は当てはまらないのでは、と考えるようになったからです。 そこで、今回、このHPを開設し、これまでの聞き取り調査の結果などを掲載するとともに、誤っていた箇所の訂正を行いました。 |
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今後も人々の暮らしを中心に泉郷に加えて徳倉郷(上徳倉・下徳倉・中徳倉・外原)の民俗と歴史の調査も加え調査・研究を深めようと思いますので、ご意見、御批判など、よろしくお願いします(20014.17更新)。 ※2001年9月、小和田哲男先生についにお会いすることができ、上記のことを報告することができました。(2001.12.20) |
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泉郷・徳倉郷とメディアについて
泉郷・徳倉郷の周辺部は、戦前から映画・テレビ番組のロケ地として使用されていた。現在、写真などの資料を所蔵しておられるお宅は少なく、かつてのこの地域の姿を知ることができる資料は非常に少ない(それは、どの地域も同じと思うが)。さらに泉郷・徳倉郷は、平安時代後期の源頼朝と義経が対面した場所として、また、泉郷の中央部に築かれた泉頭城を徳川家康の隠居城として整備しようという計画があったこともあり、それぞれの時代の小説などの文学作品に登場することが多い。中には司馬遼太郎氏のように実際に訪れた人もあるようだ。 そこで当サイトにおいては、こういった映像や作家が描写した泉郷・徳倉郷の文章などから、かつてのこの地域の姿について想像してもらうために、この「泉郷・徳倉郷とメディア」を新設した。 |
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2001年5月吉日 | ||
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