小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)

八幡神社への信仰
岩崎氏以前の神職

頼朝と義経の対面石

八幡神社の旧参道(足柄道古道に面した部分)
 近世以降、八幡神社の神職を世襲したのは八幡の岩崎氏(内八幡)であった。それ以前(文明3(1471)年以降)は今川氏の家臣であった由比氏が神主であった(中野圀雄「対面石と八幡神社」)。また文明3(1471)年の今川義忠から由比光英に与えられた「知行宛行状」から、由比氏が八幡の八幡神社の神職を務めることとなった他に八幡原(八幡神社と岩崎屋敷跡を中心とした小字、西原・内屋敷・前原・東原の一帯)関の管理権と通行料の徴収権を与えられていたことがわかる。加えて八幡神社の神主の屋敷は柿田にあり(天文22(1553)年の「今川義元の朱印状」)、由比氏の知行地も柿田にあった(永禄512(1567)年の「今川氏真判物」)。また柿田には同時期、戸倉城主笠原政堯の屋敷跡といわれる海戸屋敷があった。この海戸屋敷の位置は狩野川の川岸に近く、狩野川の水運を利用するのに適した立地である。狩野川の水運は池亨氏や上野尚美氏が明らかにされている通り、この当時もかなり盛んに用いられている。当然、泉郷もその経済圏の中にあったと考えられることから八幡神社の神主であり、泉郷の領主の1人でもあった由比氏の屋敷も柿田にあったととしても不思議はないであろう。
「新しい型の神職」のもとでの祭祀へ 中世から近世にかけての氏神を中心とする祭祀団の成立について萩原龍夫氏は「近世祭祀団成立序説」という論文の中で

大名の権力が高まりつつある時期は、一方では村落の自主も進み、村の鎮守社が村人によって確保される時期、
すなわちあたらしい氏神と「氏子」の時代であったわけである。
と述べられている。泉郷の場合、その成立後、その社会自身の結合の精神的な紐帯(氏神)とされたのが荘園制の頃から、この地域にあった八幡神社であったということなのである。『駿河記』にも
  堂庭・湯川・的場・久米田・八幡等惣領守
と記されており、八幡神社がこれらのムラムラの「惣領守」と認識されていることがわかるのである。
 同じ時期、西日本などの郷村社会においては、その指導者である名主・土豪たちが宮座のもとで毎年交替で祭祀を行なうようになっていた。そういった郷村祭祀の発達につれて、宮座の下で神社の祭祀を担当する専業の神職も出てくるようになった。その専業の神職となった人々が新たな教義としたのが、一五世紀以降発達してきた吉田神道であった。吉田神道は郷村社会との結びつきを強くする一方で、後北条氏をはじめとする多くの戦国大名からも支持を得ていた。これらのことの積み重なりが結果的に、全国の神社祭祀の祭祀団を宮座制から氏子制へと再編させたのである。
 ただ、泉郷の場合、村落自治が始まるのが16世紀後半と西日本の同じような地域と比べて遅いことから、萩原氏の言う「古い型の神職」から「新しい型の神職」への変化が宮座やそれに相当する段階を経ずに行われたと考えられる。泉郷においては柿田の岩崎氏が吉田家とも関係のあったことから「専門の神職」=「新しい型の神職」であったことがわかる。つまり岩崎氏は由比氏の元で神職を務めていたのが土豪化し八幡神社の専業の神職であるとともに泉郷を中心とする「地域的一揆体制」の成員にもなったということなのである。
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