小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)


八幡神社と八幡村
近世八幡村の成立

神社の経済基盤の確立 泉郷は天正10(1582)年、甲州征伐の際の織田信長の裁定により後北条氏の支配を離れ徳川氏の支配を受けることとなった。この時、天正7(1579)年に三枚橋城に対する防御拠点として築かれた泉頭城は廃城となった。その翌年の天正11(1583)年、沼津(三枚橋)城主松平(松井)康次は、神領寄進という形で八幡神社の所領30貫を新たに保証している。ちなみに、この30貫を石高に直すと、天正11(1583)年は銭一貫文で米二石である。つまり、この年に保証された神領30貫を米に換算すると、60石の収入が保証されたということである。。これを米の収穫高への税額である貫高から、収穫高そのものを表した石高に直してみると、年貢率が四公六民の場合、150石となる。これは近世に入ってからの八幡村の収穫高154石にほぼ一致する。八幡村は江戸幕府の成立後は旗本久世氏の知行地であった。旗本知行地は幕府の直轄領である。幕府の直轄領の年貢率の平均は四〇パーセント(四公六民)である。加えて、八幡には、この地区が元々幡神社の神領であったという伝承(八幡は内氏子と言われる)があり、「八幡神社文書」の中に、八幡(郷)に関する文書があった。永禄11(1568)年に出された北条家禁制と天正17(1589)年に出された徳川家七箇条定書である。これらの文書の内容は、それぞれ村落の代表である土豪たちに出される内容であり、宛先もそれぞれ、「八幡郷」「清水村八幡」となっている。ここから近世以前の八幡郷(村)そのものが、この神社の経済的基盤である神領であったと言えるのである。
 さらに慶長5(1600)年の関ヶ原の戦いの後の慶長7(1602)年、徳川氏から、この神社に神領20石が新たに寄進された。先述した通り、この時期まで、八幡神社の神領は30貫(約150石)である。本来ならば、この神領寄進以降は、合計で170石になるはずであるが、この時期以降、この神社の神領と確認されるのは、この時寄進された20石(後、39石)のみとなり、その他の154石は旗本の久世三四郎領となっている。この時に近世の八幡村が成立したのである。
神職と村役人の分離 それを示すのが、岩崎氏(内八幡)の分家で、近世において八幡村の名主等の村役人を世襲した家に伝わる「岩崎氏系譜」である。この系譜には、

口碑に依れば司官内八幡岩崎氏より竹原村高橋幸助方に聟となり後事情の為めに実家に復帰し家督を継ぎ、兄の子成長するに及び自ら一家を興す之れ我が岩崎家なり
とある。この分家の初代については、この系譜によると「俗名を岩崎豊後重考と称し延宝五年二月一三日に没す」とある。この豊後重考という名は内八幡(岩崎本家)に伝わる「岩嵜氏祖代々霊簿」によると、内八幡岩崎氏の四代目、二九代目の八幡神社神主となっている。加えて、この「岩嵜氏祖代々霊簿」と「岩崎氏系譜」の豊後重考の妻の戒名はともに禅林要参大姉となっている。
 これらのことから、内八幡の四代目と、この家の初代は同一人物であることが確認できる。つまり、分家の初代重考は内八幡の二代目長十良重正の子で三代刑部元重の弟である。重考は兄元重の死後、元重の子である兵部元考が成人するまで八幡神社の神職を務めたということである。さらに重考は元考に神主職を譲ってから、その没する延宝五(一六七七)年以前に内八幡から分家したということである。その後、名主・組頭として八幡村の村落自治の中心となり、元考の子孫はその後、八幡神社の神職を世襲していくことになるのである。
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