小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)
石油化学コンビナート進出と住民の戦い
                         
古泉榮一
 この石油化学コンビナート問題は中学校の教科書にも取り上げられるほど有名な住民運動であり、この運動のもとにあるものこそ、住み良い地域をつくろうという泉郷の時代からのこの地域に住む人々の願いである。ここでは清水町に住む人々やひいては日本人について考える場合の参考になればと柿田川湧水保全の会会長古泉榮一氏から許可を受け、この「石油化学コンビナート進出と住民の戦い」を掲載させていただくこととなった。
 ただ、ここに実名で記された企業をはじめ世界の企業は現在、環境対応を進めていることを記し、古泉氏も管理人もこれらの企業を誹謗する気は全くないことを断っておく。また、古泉氏の許可を受け一部加筆訂正した。
 私がこのことを書くのは、今の清水町を始め、三島市・沼津市が素晴らしい環境に恵まれた地域であるのは、昭和39年当時住民が選択したコンビナート反対運動のお陰だと思うからである。
 ことの起こりは、昭和39年当時新産業都市制定を全国の激しい陳情合戦のなかで静岡県は、第6次総合開発計画を立て、県東部の東駿河湾地域を新産業都市に指定しようと、時の斉藤寿夫県知事は運動を展開した。結局、同地域は新産業都市に準じた工業整備特別地域に指定された。この中心課題として挙げられたのが沼津・三島地区石油化学コンビナート計画だった。
 その概要は次の通りであった。@住友化学は清水町堂庭地区を中心に三島市中郷南部の一部にかけて約100万平方メートルに総工費534億円を投入し、年間エチレン9万9千dを中心にした石油化学製品を生産するものだった。また、アラビア石油は三島市中郷南部地区100万平方メートルの用地に総工費260億円、石油精製年間15万バーレル(320万キロリットル)を生産。一方、「東京電力」は、沼津市牛臥に120万キロワットの火力発電所を総工費520億円で建設する計画を立てた。
 この計画の背後にはすでに昭和35年国の「第1次計画」について県から次のように発表された。東電火力発電所を伊豆長岡町江間に、アラビア石油を沼津市大平、住友化学を清水町堂庭と昭和電工を三島市中郷に予定していたが、4社間の用地調整や、港湾造成の予定地となった沼津市江ノ浦の漁民の反対でもたついているうちに、その翌年、政府が打ち出した「設備投資抑制計画」のため挫折した。
 前述のような経過をたどりながらコンビナート進出の計画が水面下で着々と進められてきた。なぜ、このような計画が県を中心に進められたかは広大な敷地、豊かな水源、良好な港湾と3拍子揃った点と、それにもまして日本の産業が、急速な発展をし始めたた時代背景があったからと思います。
 ここで、清水町の住民による反対運度について、記憶を辿りながら記してみることにします。当時、商工会と農民の協力のもとにコンビナート反対運動を展開した。時の高橋安正商工会長、鈴木金吾副会長、田村已之吉議会議員、漆畑定夫、秋元直市、久保田剛、杉山譲の各氏がリーダーとして活躍した。私たちの町は、住友化学進出賛成派と反対派に分かれ激しい対立となった。農民の中には賛成派もあったが、堂庭地区の農民は、挙がって反対運動に参加した。また、公害についての調査のため資金を出し合って四日市の石油コンビナートの視察を行い、現地の状況を見て私たちの地域には絶対受け入れる事は出来ないと確信しました。
 町当局と町議会も反対・賛成を巡り大論争を展開し、このため町政は混乱し事態を収拾できなくなる迄追い込まれた。当時の町長や、一部の農民は、誘致に賛成し自らの土地を売却するための手続きをしていた事は事実であります。清水町に於ける最大の反対闘争は、黒川調査団との対立であった。昭和39430日用地買収にあらゆる手を使っていた住友ノーガタック・住友化学沼津出張所に対して約500名、三島市民協・中郷反対同盟・清水町民会議約400名が買収予定地的場・畑中に向かい買収に応じないよう呼びかけ、畑中の秋元さん屋敷内で住友化学役員ともみ合い険悪な事態になった一幕もありました。この調査団は、コンビナート対策として通産省(現経済産業省)が発足させたもので、それぞれの企業代表を呼んで意見聴取した。一方コンビナート反対21町連絡協議会と国立遺伝学研究所の松村清二変質遺伝部長は、当時の長谷川三島市長に「地元学者による公害事前調査団」をつくることをすすめ、これが実現した。松村団長以下5名による「松村調査団」が調査を開始し調査団に対する期待は大いに高まっていった。私も反対農民の一員として数々の反対集会に参加した一人ですが、今考えると、あの時コンビナートが出来てしまったら、今の緑豊かな清水町は無かったと思う。反対運動に心血を捧げた多くの人たちの中には他界された方もありますが、私たちは、何時までも感謝の気持ちを忘れないようにしたいものです。
 清水町議会もコンビナート進出は反対を決議して激しかった反対運動も約1年間で終止符を打つことが出来ました。「広報しみず」の昭和35年から、39年当時の記事を読みますと柿田川湧水をコンビナートの工業用水として、大量に取水する計画がありましたが、今、地球規模で水資源の枯渇が話題になっております。限られた水資源を如何に有効利用するかを真剣に考えるべき時ではないでしょうか。コンビナート反対運動について詳しい資料が欲しい方は、私まで御連絡下さい。
 地域住民による戦後最大の住民運動として騒がれたこの運動もあれから37年が過ぎ、今は忘れ去られておりますが、清水町の歴史の1ページとして記録にとどめると共に、語り伝えていくことが大切だと思います。 
 当時を振り返るとコンビナートが来なくてよかったとつくづく思います。かけがえのない自然と柿田川清流の町、清水町を私たちで守って行こうではありませんか。
 「柿田川湧水保全の会」は、皆さんのご協力により、環境保全活動を続けております。温かい御支援をお願い致します。
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