小澤弘昌の私設民俗資料館
(静岡県清水町の灌漑用水を中心とした民俗と歴史)

総論


本城山から見た泉郷



 静岡県駿東郡清水町は、静岡県東部に位置しており、地形は、ほとんどが平坦地である。かつて、この町域に住んだ人々の主な生業は農業であり、わずか8.1平方キロメートルの土地面積で米の収穫量が7000石(1910年代)もあったことからも、明らかなように穀倉地帯であった。土地利用も明治25(1890)年の地形図を見ると、清水村(現在の清水町)は、ほとんどが水田である。また、当時の清水村役場で発行した『駿東郡清水村々史』にも、「本村は田圃ニ富ミ土地一般ニ肥沃ナリ故ニ多クハ農業ヲ以テ専務トセリ」と書かれており、その前後10年間の平均収穫量も7311石と当時の駿東郡に属する町村の収穫量の合計87117石の12分の1を占めていた。これは当時の駿東郡の中にあって、最大の収穫量でもあった。
 しかし、この町域で農業を営んできた人々は、たえず灌漑用水の不足に悩まされてきた。なぜなら、町域の中央部を流れる泉川(柿田川)は、大正14(1925年)まで、灌漑用水として使用することができず、町域の農民たちは、この川以外に灌漑用水の水源を求めざるをえなかったからである。ゆえに、使用された灌漑用水も、箱根用水、小浜用水、丸池用水、小僧池用水、徳倉用水と多岐にわたる。このうち主に使用されていたのは小浜用水、丸池用水、徳倉用水で、町内の各区もこれらを中心に三つの井郷(井組)に分けることができる。すなわち町内の玉川区の丸池を水源とする丸池用水掛かりの井郷(泉郷六ヶ村といわれた堂庭・湯川・久米田・戸田・畑中・的場の六地区に昭和六〇年以降、玉川が加わる)と、三島市の小浜池を水源とする小浜用水掛かりの井郷(伏見・玉川・八幡・長沢・柿田)、大坪池・小坪池(現在は狩野川)を主な水源とした徳倉用水掛かりの地域(上徳倉・下徳倉・外原・中徳倉)の三つの井郷である。このうち丸池用水掛かりの地域と、小浜用水掛かりの地域の大部分は泉郷(玉川・八幡・柿田・久米田・堂庭・湯川・戸田・畑中・的場)、徳倉用水掛かりの地域は徳倉郷と呼ばれていた。
 また、この町域と、その周辺は一六世紀以降、土豪たちを中心とする在地秩序が発達した地域であった。
 特に泉郷を中心とする土豪の結びつきについては小和田哲男氏が「戦国期の村落構造と領主権力」という論文の中で

泉郷という一つのまとまりを基軸に、秋山・杉本・杉山・高田・窪田氏らの「地域的一揆体制」のような土豪連合的動きを読みとることができるのではなかろうか。
と述べられている。こういった土豪たちによる「地域的一揆体制」が成立した要因は灌漑用水と肥料の確保といった生活基盤の確保であった。さらに、こうしたことが可能となった外的要因としては天正7(1579)年の泉頭城築城に示されるように、この地域が駿河国と伊豆国の「境目」であったことが大きいであろう。この地域は国境であるとともに後北条氏と今川氏、後北条氏と武田氏、後北条氏と徳川氏といった勢力の接点であった。こういった地理的条件が、泉郷の農民たちの生活基盤の確保に有利に作用したといえる。泉郷の農民たちは、このように「境目」の地域であったがために、灌漑用水、肥料などの生活基盤を確保し、生産力を向上させていった。とくに灌漑用水の確保は、その後の、この地域の発展に重要な役割を果たした。こういった中世から近世にかけての井郷の形成について、喜多村俊夫氏は『日本灌漑水利慣行の史的研究 總論編』の中で

中世末下克上の台頭と共に、直接用水管理の任に当るべき守護大名或は地方的豪族の没落するもの相つぎ、中世的権威を背景とする用水秩序、更に広くは村落秩序の危殆に瀕するに及んで、従来の領主的武力に代るに現地の農民を中心とする勢力の結合が行はれ、是等は「惣」或は「惣中」なる名を以て呼ばれ、自律的に直接農民に關係の深い農村行政を担当し、用水の管理・統制に於ても、上からの支配がなくとも斯る自治体の連合・合議によつて解決せんとするに至った。近世封建制に伴って再び領内の政治的統制力を恢復した近世領主も、或は事用水に関しては特別の事情のない限りは用水関係地域の自主的運営に委ねるを便宜とし、或は近世封建組織の一特色をなした、一つの用水組織の範囲内が幕府の政策に基いて幾多の領主に分割せられ、是等諸領主間の一致的行動を困難ならしめた事情も多く、是等の外的な条件が用水自體の持つ関係地域の統一的傾向と相まち中世末の混乱時代に発源した用水区域の村落自治による管理を一層強化することとなってこれが現在に引継がれ、現型の基礎を形成している場合が少なくない。
と述べられている。
 先述したように、泉郷の農民たちが主に使用した灌漑用水は小浜用水と丸池用水である。現在、これらを使用する地域は厳然としてわかれている。しかし、この2つの用水の水路はつながっており、しかも、丸池用水掛かりの地域でも、かつて小浜用水を使用していた。泉郷を中心とする清水町域の狩野川以北の地域は近世の検地による「村切り」以降、その内部に11の村が成立し、これらの村々が、それぞれ使用する用水を中心として2つの井郷を成立させる「かたち」となった。このような状況の下、泉郷の土豪たちの信仰のよりどころとなり精神的結びつきの中心となったのが八幡神社であった。特に泉郷六ヶ村の人々の八幡神社に対する信仰は近世以降も現在まで続いており、小浜用水掛かりの井郷となった地域よりも強い。これは、泉郷六ヶ村に、未だに水利秩序とともに、八幡信仰が中世的秩序として残っていることを示している。この井郷を構成する大字同士の結びつきが強いのは灌漑用水の水源がその地域外にならざるを得なかったことの影響が大きい。また、それが、この地域に中世的秩序として八幡信仰を残したと言える。反面、小浜用水掛かりの地域は近世以降、東海道が通るようになったことや、箱根用水の通水などの条件が重なったことで、小浜用水を中心とする村落間の結びつきが弱まったと考えられる。これは、この井郷の呼称が、判然としないことからも明らかであろう
※文献史料では「泉六箇村」と書かれるが、地元の人々は「泉」または「泉郷六ヶ村」と呼んでいるため、当サイトでは「泉郷六ヶ村」と表記することにする。
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