小澤弘昌の私設民俗資料館

丸池用水の協同慣行

概要


古池

丸池(新池)


 清水町の前身である清水村は明治22(1889)年、伏見村外十一ヶ村(伏見・玉川長
沢・柿田(かきだ)・八幡・新宿(しんしゅく)・湯川・的場・久米田(くまいでん)・畑中・戸田・堂
庭)と徳倉が合併して成立した(徳倉はそれまでは、上香貫村外六ヶ村に属していた)。
それ以前に伏見村外十一ヶ村に属していた大字の大部分は、泉郷と呼ばれその生活基
盤である灌漑用水を中心に二つの井郷に分けることができる。次の

丸池用水掛かりの地域=泉郷六ヶ村(堂庭・湯川・久米田・戸田・的場・畑中)

小浜用水掛かりの地域(新宿・伏見・玉川・八幡・長沢・柿田)
 である。これらの大字の水田の灌漑用水は、町内を流れる柿田川(泉川)ではなく、三
島市の小浜池(こはまいけ)を水源とする小浜(おばま)用水と町内の玉川にある丸池を
水源とする丸池用水であった。柿田川は清水町内の水田から10メートル以上、下にあ
り、大正14(1925)年まで灌漑用水として使用することができなかったからである。
 そのうちの丸池用水は、清水町の玉川にある丸池(円池)を水源とする灌漑用水であ
る。水源の丸池は周囲289メートル、面積7800平方メートルの円形の池である。この灌
漑用水は現在まで泉郷六ヶ村(現在は玉川が加わり、「堂庭ほか六大字」)の人々の生
活基盤である。
 この灌漑用水の起源について、『駿河記』には、天長9(832)年に築造されたと記され
ている。この元々の池は現在の三島市清住町にあり古池と呼ばれている。古池は地震
などで湧かなくなった時期があり、後に泉郷六ヶ村と呼ばれる地域は灌漑用水の不足に
悩まされるようになった。しかし、後北条氏がこの地域を治めるようになるとインフラ整備
の一環として元亀3(1572)年に新池が築造され、古池とともに使用されるようになり、
この地域は穀倉地帯として発展することになった。現在は新池のみ使用されており、丸
池といえば、新池を指す。現在、丸池用水の維持・管理は堂庭ほか六大字の農家の
人々により結成されている丸池かんがい用水土地改良区により行われている。 

1灌漑施設


セギ作りの作業
写真をクリック


中堀

構造 灌漑施設としての丸池用水の構造の特徴は一度、堀(水路)に水を流せば、その
大セギ(分水点)から、その使用する水田に水係り高(受益面積)に応じて、
等しく行き渡
る構造になっていることである
。加えて、この堀を流れる水は、この井郷を形成する全て
のムラムラの水田を灌漑した後、全て、中堀に戻るようになっている。その灌漑施設の分
水点である大セギは全部で3ヶ所ある。用水を分水する順序は次の通りである。まず、寺
田セギで柳川が分かれる。次に五反田セギで西堀が分かれ二ツ石セギで、中堀から戸
田堀が分かれる。中堀は丸池用水の堀の中心で、丸池から泉郷六ヶ村の中央部を通
り、的場まで進んで境川に落ちる。ここまでにかかる時間は1日半から2日である。この中
堀を境として、泉郷六ヶ村は次のように、東方(ひがしかた)と西方(にしかた)の2つに分
かれる。

東方 久米田・戸田・畑中・的場

西方 堂庭・湯川
 西方は中堀と西堀により、堂庭、湯川の順で灌漑し、東方は戸田堀により久米田、戸
田、畑中の順で灌漑している。
 灌漑用水の施設の目的は、水掛かりの水田を等しく灌漑することである。ゆえに、この
用水の大セギの高さは寺田セギを除いて、毎年4月のオオミゾザライ(大みぞざらい)の
際に、全て水が流末の水田まで、水係り高に応じて、等しく行き渡るように調節される。
基本的に丸池用水のセギは全て、洗堰であるので、灌漑用水が不足するまで、調節され
ない。

 大セギには「根石」と呼ばれる石が堀の分岐点の目印(分水石)として置かれている。
この「根石」は絶対に動かさないことになっている。この大セギを作る作業は、「根石」の
前に藁を敷き、その上に土をかぶせ、大きな石を置く、さらに、その上に水量を調節する
ための石をいくつか置くことによって完成する。水田耕作の期間中は、そこから分水する
水の水量の調節は大セギの一番上の石を、取ったり、置いたりすることで行う。
 二ツ石セギには名前通り、大きな石が二つ根石として並べてある(現在はコンクリートで
固められている)。この大セギだけは、他の大セギと違い「根石」の上に直接石を置き、セ
ギの高さを調節する。この場所での水のセキ止め方により、水の流れる向きが、中堀の
東か西になるので、それぞれの方角にある水田の灌漑水量に大きな影響があり、時に
は水争いに発展することもあった。
 地形的に見て、西方は土地が高い上に、水持ちが悪い。それに対して東方は土地が低
く、水が流れやすい。そのため、ここのセギの高さが高いと、西方の水田の水量が多くな
り、低いと東方の水田の水量が多くなる。そこで、普通は水が東方にも西方にも等しく分
水できるように調節してある。1960年代まで、シロカキの頃に水が充分にないと、東方
の農民と西方の農民が鋤や鍬を持ち、このセギの付近に集まり、にらみ合いを続けた。
水利組合の役員まで一緒になってにらみ合いを続けたので、間に立って解決する人がお
らず、後に水配人が置かれる原因になった。西方の農民たちは、水田が少なくなり、水配
人がつくまで、シロカキの頃には、自分の水田の番(見張り)を一晩中しなければならな
かった。
 二ツ石セギだけでなく、大セギの上の石を外すなどして、一方に有利なように水を引く
と、水争いになる。しかし、水争いになっても、村々の間が検悪になることはなかった。泉
郷六ヶ村の人々がその水利慣行に関して、いわゆる「互譲」の精神を大切にしてきたか
らである。
 寺田セギは一刻セギとも言い、玉川の寺田に灌漑するためのセギである。寺田は土地
が高く灌漑しにくいので、大きな石を二重に積み重ねて、セキ止めた。寺田セギは幅が広
く大きなセギであるために、水が境川に落ちてしまう。そのため、毎日、正午から午後2時
までの一刻(2時間)だけ、水を堰き止めて、その後はセギを払うことになっていた。寺田
セギが別名一刻(いっとき)セギと呼ばれるのは、このためである。田植えの期間中、寺
田の水田を耕作する人々は、毎日二重の上石を載せたり、外したりしていたが、水の勢
いが強く裸にならなければできなかった。現在は、このセギの付近に設置された払い水
門が、このセギの役割を果たしている。
 これらの大セギを作る作業は、かつては組合員全員で行っていたが、当番区の制度が
出来てからは、その年の当番区の人々が行っている。小セギを作る作業は、オオミゾザ
ライの後、その付近の水田を耕作する人々が、結を作り、行う。 
水利慣行 かつてのこの地域の堀には用排水路の区別がなかった。水田の灌漑方法
カケゴシ(掛越)といって言われる方法である。引水の順序は、一般の灌漑用水と同様
に、水上の水田が先に取り入れる権利があった。しかし、水を水田に引く場合、水が水田
の全てに掛かるまで(1反歩あたり2時間半から3時間)、その水田のみ、水を引くことは
できなかった。堀に少しは水が流れるようなセキ止め方をしなければならなかった。水を
流す順序があるからといって、自分の水田にだけ、水を引くともめた(水争いになった)。
堀に用水路と排水路の区別がつきカケゴシでなくなったのは、1960年代、ポンプが設置
された時からである。

2 水利組織

@泉郷から泉郷六ヶ村へ


文書箱

入会地(柿田川川岸)
地域的一揆体制の成立 天文20(1551)年、当時、駿河国を支配していた 今川氏
が、現在の清水町域を含む地域の検地を行った。この時、今川氏の検地に協力したのが
堂庭の杉山氏などのこの地域の土豪(名主)たちであった。その結果、彼らは天文22(1
553)年の今川義元判物(「杉本文書」)にあるように年貢の地下請を認められた。その
後、約20年の間に、この杉山氏・畑中の秋山氏・久米田の杉本氏をはじめとする土豪た
ちの泉郷を中心とする地域的一揆体制は灌漑用水(丸池用水・小浜用水)の水利権・肥
料(泉川=柿田川の川草)の確保を実現した。その背後には、永禄3(1560)年の桶狭
間の戦による今川義元死後の今川氏真の政治改革、今川氏亡前後の後北条氏の、この
地域への進出があった。この政治的な混乱期に、泉郷の土豪たちは生活基盤の確保と
それによる在地秩序を実現したということである。
泉郷の人々と文書 泉郷の人々の生活基盤は小浜用水・泉川(柿田川)の川草(川藻)
であった。泉郷(近世以降は泉郷六ヶ村、現在は堂庭ほか六大字)の人々は、その村落
自治の実現以来、その諸権利(丸池用水・泉川の川草の採取権)を保証するための古文
書を所持してきた。いわゆる「泉郷文書」、「秋山文書」、「杉本文書」「旧堂庭村民十郎兵
衛文書」などが、それである。現在も、改良区の理事長と会計が「文書箱」という木箱の
中に丸池関係の書類を保管している。それらの古文書のうち、次の

@元亀3(1572)年の後北条氏の朱印状(「杉本文書」)

A天正元(1573)年の後北条氏の法度(「六ヶ条の法度」)(「杉本文書」)

B永禄13(1570)年の今川氏真の朱印状(「泉郷文書」)

C天正5(1577)年の後北条氏の裁許状(「杉本文書」)

D永禄10(1567)年2月6日の今川氏真の朱印状(「泉郷文書」)
の文書は「一郷所賜なり」(『駿河志料』)といわれ、この時代以降、泉郷(おもに泉郷六ヶ
村)の人々に大切に扱われてきた。@とAは丸池用水に関するものBとCは泉川の川
草の採取権に関するもの、Dは年貢の地下請に関するものである。特に天正元(1573)
年の朱印状については文政7(1824)年の泉郷六ヶ村と西玉川村との間の水争いの際
に出された「駿東郡泉郷六か村湧水池埋木理不尽訴状」に、「右御書付は則六ヶ村ニて
所持罷在」、「 六ヶ村惣百姓共相続仕候」とあることから、泉郷六ヶ村の人々が、この「六
ヶ条の法度」の書付を大切に相続し、その内 容を丸池用水の維持管理に関する仕来り
として守ってきたことが分かる。 加えて、この「六ヶ条の法度」を書いた2本の立て札を丸
池の縁に立てて、 泉郷六ヶ村が丸池の水利権を持つことを、西玉川村に対して示すしき
たり が、天正元年以来、あったことも、この訴状に記されている。この「六ヶ条の法度」の
内容は、

(1)、丸池の本池(古池)・新池の魚を取らないこと。

(2)、池に魚を取るための網を仕掛けないこと。

(3)、牛馬を池の周囲に入れないこと。

(4)、池の周囲の竹・木・草を刈り取らないこと。

(5)、堤(灌漑施設)を毎日見回り、少しでも壊れた箇所があれば、直ちに修理すること。

(6)、大風雨の時は水門を上げて水を出し、灌漑施設には少しも被害を出さないようにすること。
というように堤(溜池を中心とする灌漑施設)の維持・管理に関するものである。この法度
は、元亀3(1572)年の堤(新池)の築造後に、当時、この地域を支配していた後北条氏
が、泉郷の土豪たちに、出したものである。これを示すのが、元亀3(1572)年の後北条
氏の朱印状(「杉本文書」)である。この朱印状の内容は、泉郷の堤(溜池)を築造する際
に、伏見・竹原・土狩の名主たちに泉郷の芝を使用するように命じたものである。また、そ
れより3年前の
永禄12(1569)年の朱印状(「秋山文書」)にあるように、丸池用水の水
利権を土豪たちは得ている。
新池の築造 丸池用水は天長9(832)年に築造された。しかし、元亀3年に、それまで
の水源(古池)より高い場所に、新たに溜池(新池)を築造し、その用水を使用する水田
全てに、等しく分水できるようにした。泉郷でこういった工事の行われた背景については
丸池の弁天島にある碑に

此丸池は何時頃出来たか明らかでない。古池が地震で湧かなくなって、更にこの池を造ったと言い伝えている。
とあるように、時期は判然としないが古池が渇水したことが大きいであろう。さらに16世
紀後半には、後に泉郷六ヶ村と呼ばれるようになった地域(堂庭・湯川・久米田・戸田・畑
中・的場)の農民たちも小浜用水も灌漑用水として使用していた。それを示すのが
天文2
1(1552)年に今川氏から甘利氏あてに出された判物
と久米田に樋掛田という地名であ
る。しかし、この用水を条里制の時代から使用していた伏見・八幡・長沢・柿田・西玉川
(玉川)といわれる地域も『駿河記』に

豆州小浜池水を駿東六村へ引、所謂玉川・新宿・伏見・八幡・長澤・柿田等の田に灌漑する水なり。此村里古代水渇の処なりしが、天文の頃より今川氏北条氏の恵を以てかく豆州より水を取しとなり。
とあるように、灌漑用水は充分でなかったと考えられる。ゆえに後北条氏は日詰大樋(後
の千貫樋)
を改修するとともに新池を築造し、泉郷・伏見・長沢の農業生産力の向上を図
ったのである。
 また永禄7(1564)年の今川氏真の判物(「旧堂庭村民十郎兵衛文書」)と永禄10(1
567)年の朱印状により代官(地頭)である今川家の家臣を通さずに年貢を請納する権
利を得た(地下請)。さらに永禄13(1570)年の今川氏真の朱印状により、泉郷が泉川
(柿田川)の川草の採取権を保障された。
泉川(柿田川の川草) 柿田川の水面は、先述したように、この地域の水田から10メー
トル以上、下にあり、灌漑用水として使用することは、長い間不可能であった。このこと
が、この地域の水田の灌漑用水の不足をもたらし、泉郷の農民たちに、水源を別に求め
させることになった。しかし、この川の川草(川藻(水藻=三島梅花藻)も全て含む)は二
毛作の麦と
桑の肥料として、効果があった。先述した『駿東郡清水村々史』にも「夏・秋
四季ニ当リ柿田川ヨリ採集シ田畑ノ肥料トナス是又多大ノ産額ナリ」と記されている。か
つて泉郷といわれた地域の農民たちは、この川草を育てるために、葦などを取り除いてき
た。川草を採る場合、川岸(柿田橋・清水町図書館付近)から船を出して、川の中に竿を
入れ、その竿に川草を巻き付けた。採った川草は川岸に干して、乾燥させた。乾燥した
後は、これを担いで、田畑に運んだ。戦後はこれらの川草に関する管理が行き届いてい
ないため、葦が繁殖し、植生が乱れてきている。
穀倉地帯への発展 一般に年貢の地下請と、灌漑用水と肥料の確保が郷村が村落自
治を開始するための条件と言われている。これらの条件を得て、ようやく泉郷では土豪た
ちによる在地秩序がもたらされたのである。なお、近世の検地による村切り以降、丸池用
水・小浜用水を生活基盤として2つの井郷が形成された。ゆえに近世以降、泉郷のうち、
丸池用水を使用する村々で形成される井郷(井組)を泉郷六ヶ村と呼ぶようになり、単に
泉郷・泉之郷と呼ぶ場合も、この泉郷六ヶ村を示すことになった。こういった動きが可能
になった背景には、生活基盤の確保による農民たちの生活の向上もあった。それを示す
のが
慶長11(1606)年の三島代官井出正次の諸役免除手形である。この手形の内容
は,泉郷六ヶ村に散田(新田)500石が開墾されたので、その新田500石の年貢を免除
するというものである。

A丸池かんがい用水土地改良区


丸池かんがい用水土地改良区の総会


沿革 現在の丸池用水の維持・管理は丸池かんがい用水土地改良区(以下改良区とい
う)により行われている。明治6(1873)年に、泉郷六ヶ村の農民たちにより丸池用水組
合が成立した。それ以降、丸池水利組合・丸池管理組合を経て、昭和32(1957)年に
成立したのが、この改良区である。昭和60(1980)年に玉川用水組合が合併し、この
大字の結びつきも「堂庭ほか六大字」といわれるようになった。
組合員の資格 この改良区の組合員は当主がなるのが原則である。役員には大体40
歳以上の組合員が選ばれる。
役員 改良区の中心となり、丸池用水の管理を行っているのは、理事長以下の役員であ
る。改良区の役員は毎年3月に行われる総会(通常総会)で、3年ごとに、1名を除いて、
改良区の組合員の中から選出される。役員は理事12名、幹事3名の合計15名である。
理事は次に示すように、2名選出する大字と1名選出する大字がある。

2名 玉川・久米田・堂庭・湯川・的場

1名 畑中・戸田
理事の中から、理事長1名、副理事長2名が選ばれる。かつては理事は大字で1名づつ、大字
の中で選出されていた
総会 総会(通常総会)は先述した通り、毎事業年度1回3月に開かれる。総会は午前9
時に始まる。総会の招集者は、出席人員が定数に達したときは、これを報告して開会を
宣言する。次に理事長の挨拶と来賓の祝辞が述べられる。その後、出席した組合員の
中から議長の選任を行う。議長は、議事の進行をはかるほか、議場の整理に必要な措置
をとることができる。また議長は総会の承認を得て議事録署名人2人と書記を指名する。
議事録署名人と書記が指名された後、議事の進行が始まる。議事の進行は、まず議長
が議案の議題を宣告した後、提案者の説明、これに対する質疑討論と採決の順に進め
られる。議案の採決の行われた後、組合員は議長に議題を提出することができる。議題
は他の組合員の5分の1以上の賛成を得れば提出できる。議長は、この議題が総会で議
決できる場合は、これを議案として付議すべきかどうか、総会の出席者全員にはからな
ければならない。それ以外の議題については、動議が議案の修正の動議である場合に
は、必ず修正動議について採決する。ただし、修正動議が2以上あるときは、その趣旨
が原案と、もっとも異なるものから順序に採決する。議題の採決の方法は、挙手・起立又
は投票のいずれかである。その後議長は書面による議決を加えて、総会にはかって決定
する。議案のうち委員会に付議したものは、委員会の審議の結果を聞いて採決しなけれ
ばならない。議事が終わった後、議長と書記の解任が行われて、午前11時前後に総会
は閉会する。
用排水調整委員会 用排水調整委員会は丸池かんがい用水土地改良区の委員会の
中の1つで、セギの調整を行う。人数は委員長を含めて6、7名であり、全て改良区の理
事である。この委員会は駿豆水道が敷設された時(1970年)に置かれた。この委員会
の委員は別名水配人と呼ばれ、委員長は水配長と呼ばれる。仕事の内容は@各地区の
水田に水が来なくなるなどの問題が起きた場合、この用水掛かりの全ての水田を見回
り、水の量を掌握した後、大セギを見回り、石を動かしてセギの高さを全ての水田に水が
等しく行き渡るように調整する。A大雨の後などに自動セギを元通りにする仕事、であ
る。
 それとは別に、毎日、亀甲石付近のゴミを払い、午前と午後の2回、丸池の水位を見
て、堀の水量を見ながら、ポンプを調整する(北から第4・5ポンプ、第1ポンプ、第3ポンプ
の順)仕事(
管理当番)がある。この仕事は、理事長を除く、各理事が毎日交代で行う。
丸池用水には昭和40年代以降、第一から第五まで5ヶ所の揚水機場があり、それぞれ
ポンプが設置されている。このポンプは県で作られ、町が委託されたもので、改良区で管
理しているポンプの操作は7月以降、9月30日まで、理事が交代で毎日行う。理事は、こ
のため、ポンプを製作した会社の社員に操作方法の指導を受けなければならない。ポン
プが動き出すのは、ミズアゲ(水揚げ)の後、5月の下旬以降である。それから、6月30
日まで、ポンプの操作ができる理事が管理人として、ポンプの管理を行う。
芝切場の成立 天正元(1573)年に新池が築造された際に、丸池の水囲い用の土手
の補修用の資材となる竹・木の伐採地・土取場として、古池の西南(新池である丸池から
見て西北)の土地が免税地である除地とされた。この土地は泉郷六ヶ村で管理されてい
た。この除地の面積は3筆合わせて4反4畝5分(4、852.08平方m)であった。江戸時
代には池番が置かれていた。
堂庭ほか五字特別会計 芝切場は現在、宅地として25名に貸しており、その地代を丸
池の補修の費用としている。これを「堂庭ほか五字特別会計」といい、3年ごとに地代の
更新を行っている。この土地の管理は丸池借地担当の理事の他に3名の理事がつい
て、行っている。

3 協同慣行


ミズオトシ

オオミゾザライ

オオミゾザライ(結での作業)

水神祭の準備

水神祭

ナカボシ



年中行事 「堂庭ほか六大字」の丸池用水維持のための年中行事で、近世以前から、
行われていると考えられるものには、4月中旬のミズオトシ、下旬のオオミゾザライ、5月
初旬のミズアゲ、7月中旬の各堀の草刈と第1回のナカボシ、8月初旬の第2回目のナカ
ボシがある。これらの年中行事(特にオオミゾザライ)に参加しなければ、水を水田に入
れてもらえないという言い伝えがあるため組合員はオオミゾザライの時は全員参加する。
実際には参加しなくてもデブソク(出不足)といって、決められた金額を改良区に納めれ
ば、済むのだが全員参加する。
当番区 この灌漑用水維持のための協同慣行には、かつては、組合員全員で参加して
いたが、現在は、主に、その年の当番区が、その作業を主に行っている。当番区というの
は、1年交替で@玉川、A堂庭、B湯川、C的場、D畑中、E戸田、F久米田の順に、
堂庭以下六大字の各区の組合員が、役員とともに丸池用水の維持管理などを行う制度
である。
ミズオトシ ミズオトシ(水落し)は毎年4月18日前後に行われる。この作業は、次の手
順で行われる。先ず箱根用水と小浜用水が合流する地点である新宿の亀甲石の丸池用
水の方向に向かう堀の入り口を、土嚢でセイで(セキ止めて)箱根用水の水が流れて来
ないようにする。次に上(北)から順番に東水門から二ツ石セギ付近の払い水門(上水
門)までの大セギと払い水門を払う。それから、いつもと流れる向きを逆にして、池の水を
全て、境川に落とす。最後に、各堀を干す。かつては、この作業の後、鰻が10匹ほど池
の底に上がり、それを蒲焼きにして、皆で食べた。現在、この作業は当番区の人々と役
員が行うが、かつては組合員全員で行っていた。
オオミゾザライ オオミゾザライ(大みぞざらい)は毎年4月30日前後に行われる。この
作業は組合員全員で、東水門から二ツ石セギまでを5ヵ所に分けて、堀浚いと清掃を行う
作業である。この5ヶ所のうちの1カ所を大体1つの大字(ムラ)で分担する。この担当箇
所は、水を流す向きと反対方向に1年ごとに交替する。改良区に発展する以前は、この
作業の後に、総会を行っていた。
 小セギを作る作業は、オオミゾザライが終わった後、大字ごとに行われる。これらの作
業は、午前中に行われる。その日の午後からは、それぞれの堀ごとにそれを使用する人
たちが集まり(イイ=結を作り)、ホリザライ(堀浚い)を行う。この作業の順序はオオミゾ
ザライとは逆に、下から上に向かって(南から北に向かって)行う。
ミズアゲ ミズアゲ(水揚げ)は毎年5月8日前後に行われる。この作業では、下番当番
区の人達が二ツ石セギから順に、南から北に東水門、上水門、境川の各部をセぎ、亀甲
石付近のセギを切って、水を丸池用水の各堀に入れる。その後、上番当番区の人達が
立ち会って、下番から上番の当番区の引継と水神祭を行う。
水神祭 水神祭は、ミズアゲの後、役員、当番区の人々が共に丸池の中央部の弁天島
にある水神様(弁天神社・清兵衛神社)に集まって行う。この水神祭の神主の役は理事
長が務める。
 水神祭の準備は、新しい竹を4本切り、水神様の四方に立て、その周りに注連縄を張っ
て、お供え物を上げて終わる。お供え物は酒1升・洗米・塩と野菜・魚である。洗米と塩は
カワラケに盛る。魚はマスで、丸池に隣接している綾部養魚場から寄付してもらう。
 準備が終える頃に、ミズアゲを終えた改良区の役員・当番区の人たちが集まり、水神祭
が始まる。この祭は、理事長の挨拶から始まる。挨拶が終わると、理事長はもう一人の
理事と共に塩と御神酒を、塩、御神酒の順で四方に撒く。次に理事長が、その年の豊作
と丸池の水が充分に沸き出すことを祈った後、皆で御神酒を飲んで、乾杯する。その後
の直会で、参加者全員で、お供え物を分けて食べる。
ナカボシ ナカボシ(中干し)は毎年、7月の8日前後の3日間と8月の8日前後の3日間
の計2回、行われる。ナカボシの間は、ポンプを全て停止し、田んぼを干し、組合員全員
で南から北に向かって畦・堀の草を刈る作業を行う。

4 農家の生活


昭和初期の田植え(古泉榮一氏提供)
シロカキ かつて、泉郷の農民たちは朝5時に起床し、6時には田んぼに入り、農作業を
開始していた。10時には昼食をとり、午後2時にはオユウジャ(おやつ)を食べた。午後5
時には農作業を終わりにしていた。シロカキ(代掻き)をした、その日に苗を植えないと土
が固まり、苗が植えられなかった。そのため、馬のハナトリとシンドリの役目の人は作業
を早く行うことを要求された。シロカキには馬を2頭使っていた。現在は機械を使用するた
め、地面が少し固い方が良い。
イイ かつては、田植えをするために、隣接する水田を耕作する農民たちでイイ(結)を結
んだ。その目的は、それぞれの水田に交互に田植えを行うことであった。1つのイイは10
人前後で構成される。その内訳は、ほとんどの場合ソートメ(早乙女)5人・縄を張る人2
人・馬のハナトリ(鼻取り)1人・シンドリ(馬鍬を持つ人)1人である。シロカキを行うための
馬は、馬を持っている人から借りてきた。その費用(日当)は1日あたり、人を2、3人雇う
ことの出来る金額に相当した。そのため、足りない費用はイイ返しといって労力で補っ
た。稲を植える作業を行ったのは主に女性であった。
マングワアライ マングワアライ(農休み)は6月30日と7月1日の2日間である。神社の
清掃を行った後、休養をとる。この日はちょっとしたごちそうを作る。田植えを終えてほっと
一息といったところである
稲刈り 稲刈りの時期になると、稲刈りの作業を行う人が不足する場合があった。そのよ
うな場合、新潟や伊豆の田子(西伊豆町)から娘たちが、泊まり込みで稲刈りを手伝いに
来た。賃金は米であった。稲刈りの作業が終わると泉郷六ヶ村の人々はリヤカーに米と
荷物を積んで、沼津港まで彼女たちを見送りに行った。

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